茶吉庵の歴史

築250年の茶吉庵の歴史と、茶吉庵で発見した品々をご紹介します。
茶吉庵の歴史
 

茶吉庵ができる前

およそ400年前に恩智に来ました。 その前は豊臣方の武士だったのではないかと言われています。 先祖の出身も近江出身と伝わっています。 (口伝ですが、菅原一門で、近江の萩原庄の出と伝わっています。) 豊臣政権が滅んだ時に、所領地であったこの地に来たのではないかと言われています。 石高は350石。 所領は田が17町、それ以外に山がありました。 石田三成の子供と伝わる、八尾の豪商 石田三利、その曽孫が当時の萩原吉兵衛(茶屋吉兵衛)に嫁いでいました。(八尾市史でも確認できます) その頃には木綿問屋を営んでいたようです。 石田家(小山屋)とつながったことにより、薬も扱うようになったようです。

元々は河内木綿の問屋だった!

茶屋吉兵衛は、河内木綿の問屋でありながら、織元でもありました。 取引先は、大坂、摂津、京都、滋賀、讃岐、伊勢、大和、など、近畿地方や四国地方に納めていました。 織元でもあったので、明治時代になると、いち早く織物工場へも進出しました。 当時は、中河内地方では最大規模の織物工場であったと中河内郡史にも写真とともに記載されています。 その動力は、当時世界最先端の技術であったドイツからディーゼルエンジンを輸入し、ドイツ人の技術者も雇っていました。 そのディーゼルエンジンで勉強していたのが、のちの大会社ヤンマーの創業者でありました。

当時から残っている木綿

 
 
 

明治21年 茶吉合名会社を設立

明治21年茶吉合名会社を設立します。設立と共に河内木綿問屋の役割を終えた萩原家は、厩の跡地に、郵便局を開局します。 電話が開通すると、郵便局の二階で、電話の交換も受け持ちます。

厩の二階は、昔は女中部屋でした。

そんな元々郵便局だったところは、現在ゆくるカフェへと生まれ変わろうとしています。

茶吉庵伝来の品々

備前長舟

 

高機(たかばた)

 

下機(しもばた)

天保通宝

 

明治41年の帳面

 

大福帳

 

河内木綿の原反

香炉

 

香炉

 

かがみ

 

燭台

 

行器(ホカイ)

 

行器(ホカイ)

 

見台

 

枕屏風・祝い膳

 

Chakichian


Mr. Hagiwara inherited the cotton wholesalers’ trade name “Chaya Kichibei”, which had existed for generations. And the shortened form “Chakichi” suggests the fond feelings of the local people. Now, when renovating this old house, he named this place the Chakichian, after the tradename Chakichi.

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